黒船々頭申状写

黒船々頭申状写

くろふねせんどうもうしじょううつし

 

豊臣秀吉は天正15年(1587)に宣教師追放令を発した。翌年4月に長崎を収公し、その代官に任じたのが鍋島直茂(1538~1618)である。代官の役割は物成の運上や秀吉御用品の購入などであった。同19年、鍋島直茂らは長崎に入港したポルトガル船から御用印子の独占購入を図った。ところがこの時の下代衆の強硬な態度に対し、自由な貿易を阻害されたと感じたカピタンが秀吉に「黒舟船頭、謹みて言上」した訴状が本書状である(江戸時代の書写)。訴えの内容は、おおよそ以下の通りである。
印子以外の諸々の貿易品も差し押さえられていること。着岸後は安堵のためひとまず上陸する慣習なのにもかかわらず、下船を差し止められ食事もままならないこと。40年以上に及ぶ日本への渡海の中で初めての難渋であること。今後は商売の道に通じた人物を差し向けて欲しいこと。
これを受けた秀吉は、直茂らに宛てた翌月の朱印状で「言語同断の次第、曲事に候条、下代共搦め捕り置くべく候。自然その上をのばし候はば両人越度たるべく候」として下代衆の取り締まりを命じている。結局この一件で、直茂は下代への管理不行届のため解任されたと言われている。ただ、鍋島直茂が直轄領の代官に任命されたことは、肥前国龍造寺家の有力家臣としての認識のみならず、秀吉との関係が直接的で公的なものとなったことを意味する。任命の翌年(天正十七年)正月、龍造寺高房とともに上洛した直茂は従五位下・加賀守となり豊臣姓を許された。これまでの信生(のぶなり)という名乗りを直茂と改めたのもこの時である。

江戸時代(原本は天正20年)(1592年)


縦29.0cm 横44.3cm


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