第5回 流行り病に打ち勝つ!

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 幕末の佐賀藩は、西洋医学をいち早く取り入れました。天然痘が流行するなか、直正公は長崎在住の藩医を通じてオランダから痘苗(ワクチン)を入手し、長男の淳一郎(のち11代直大)への接種の成功をきっかけに、領民にも広まりました。その後、「種痘」(天然痘予防ワクチンの接種)は全国的に普及していきました。

「父の余計な老婆心」

 貢姫さまも幼少の頃に接種を受けましたが、直正公にとっては、遠くに住まう愛娘のことがとにかく心配でなりません。貢姫さまが27~28歳の頃には、気づかいの言葉を重ねながらも、再度の接種を勧めるお手紙を送られています。

【翻刻】
「いらさることなれとも一寸申遣参らせ候、江戸表ハ、近頃殊外疱瘡流行いたし候由ニ付、もはや大丈夫とハ存候得共、用心之ため今一へん引痘いたし候方、安心いたし候間、幾山江も申入候付、よろしくと存候半ハ玄朴へ申付、うへ候様ニと存候、誠ニヽ爺かいらぬ事と可被存候得共、遠路相案候付、一寸と申遣候、必スヽはら抔御立なされぬ様にと存参らせ候、別段幾山ニハ不申遣候間、よろしく御申入候様と存候」
【現代語訳】
「余計な事ですが一言お伝えします。江戸では、近頃は特に疱瘡(天然痘)が流行しているとの事ですから、(貢姫は幼少期に一度接種しているので)もう大丈夫かとは思いますが、用心のためもう一度引痘(接種)をされた方が安心です。幾山(※1)へもお伝えしていますから、ご承知ならば、(伊東)玄朴(※2)に申し付けて接種してもらってください。本当に父の余計な老婆心と思われるでしょうが、遠路で心配なため一言お伝えします。決して腹などお立てにならないようにして下さい。」

 

西洋医学で皆を救う!

 佐賀でコレラが流行した安政5年(1858)、直正公は城下や郷村に出張診療所を設置し、さらに直正公専属の医者でさえ、遠方でなければ派遣要請に応えるように命じました。そのときの貢姫さまへのお手紙には、西洋医学の有用性を伝える内容が記されています。

【翻刻】
「御地ハ時かふ如何候や、当表は疫病流行ニて大困りいたし候、しかし、小路・在町計りニ而、城内江は少も入り不申、しかし、皆々大こわかりいたし居候、蘭法ニかゝり候者は一人もけか無之、良英・南嶺ハ大流行ニて少もひま無之候…(後略)…」

【現代語訳】
「江戸はいかがですか。佐賀では疫病が流行して大変困っています。しかし城下の武家地や町人地ばかりで城内へは少しも入って来ていません。ところがみんな大変怖がっています。蘭法(西洋医学)にかかった者は一人も大事に至ることなく、(大石)良英(※3)・(島田)南嶺(※4)は、この大流行のため少しも暇なく働いています。江戸も同様とのことで、さぞかし(恐ろしいこと)と思います。蘭法ではなくては、漢法は何の役にもたちません。…(後略)…」

 

  この直後には医学寮(好生館)を拡充し、西洋医学による医者の養成に力を注ぎ、領民の健康を守りました。また、直正公は側近に「領中の者は皆、子の如し」という思いを語ったことがあります。領民も我が子のように大切に思う直正公の「親心」が感じられます。

 

参考

※1:幾山
貢姫さまお付きの老女。
※2:伊東玄朴(1800~1871)
天保14年(1843)より藩主鍋島直正の江戸詰めでの御側医。安政5年には幕府の奥医師となる。天然痘予防に関する種痘(牛痘手法)の導入と普及に尽力した。貢姫さまの種痘の接種を担当した。
※3:大石良英(1810?~1865)
藩主鍋島直正侍医。好生館設立時の西洋医学推進者。蘭学の先駆者であり、優れた人格者であることが直正公の目に留まり、弘化元年(1844)に侍医に取り立てられる。直正公の御匙医となる。直正公の長男・淳一郎の種痘に成功。
※4:島田南嶺(1807~1861)
佐賀藩医で好生館教師。種痘の推進者のひとり。

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