第6回 娘を案じる直正公の思い

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貢姫さまの縁組

 貢姫さまは、天保10年(1839)に佐賀城で生まれます。7歳の時に直正公の正室・盛姫さまのもとで養育を受けるために江戸の佐賀藩上屋敷へ移りました。当初、貢姫さまは鳥取藩10代藩主・池田慶行(いけだよしゆき)公と婚約をしていましたが、貢姫さまが10歳の嘉永元年(1848)に慶行公が17歳で亡くなってしまいます。その後、再縁談の話が持ち上がり、安政2年(1855)、貢姫さまは17歳で川越藩主の松平直侯(まつだいらなおよし)公(※1)と結婚しました。しかし、わずか6年後に23歳の若さで直侯公を亡くされます。この時、父・直正公は貢姫さまと貢姫さまのお側にいた老女幾山それぞれにお手紙を書かれました。
 

傷心の娘の身を案じて

 夫を亡くされたばかりの貢姫さまへ宛てた手紙は簡潔な内容ですが、短いお手紙の中でも愛娘を心から心配し、貢姫さまの様子を案じる直正公の親心が伝わってきます。

【翻刻】
「一筆申入まいらせ候、さては、大和守さま御事、御水気の末、御大せつニ被為成候由、誠以御残多キ御事、嘸や御愁しよふと存まいらせ候、此節なから、強キ障り等も無之やと存まいらせ候、まつは御見舞迄、如此御座候」
【現代語訳】
「大和守様(直侯公)の御事、水腫の末にご逝去なさったとのこと、誠に残念なことで、さぞかしご愁傷様のことと思います。(今回の事で貢姫が)体調を崩さないだろうかと心配しております。まずはお見舞いまで申し上げます」

 

幾山へ託した親心

 貢姫さまへ宛てたお手紙と同日付で、彼女の側に仕えていた老女幾山へも直正公は娘の身を案じる手紙を書いています。貢姫さまへは簡潔に身を案じる旨を伝える一方で、幾山へは娘の様子を案じる旨や今後の貢姫さまの住居についての具体的な提案など多くの事が綴られています。そして何より、いつも以上に貢姫さまの事を気にかけてあげてほしいと、遠く離れた娘を心配する親心を貢姫さまの側にいる幾山へ託している様子がうかがえます。



【翻刻】
「大和さま御事、誠ニ誠ニ御気の毒千万ナル御事、嘸やお貢始一統愁しよふの事と被存申候、是ゟも御残多く、夫のみ存続けまいらせ候、此節柄、強キ障り等も無之や、保養第一と存候、幾山抔も抜目は有之間敷候得共、お貢養生専一と存まいらせ候、且亦、山の上の御茶や御不用ニ可有之候、もしやお貢も右之場所江御引移等出来候半ハ、御近所ニも二本榎ゟはよろしく、尤、涼叢いん下ニ被居候事ニ付、却而二本榎の方楽かとも被存候、お貢存寄次第、幾山ニも得ト考へ候様存まいらせ候、まつは右之趣、御残多事のみ荒々申遣候」
【現代語訳】
「大和様(直侯公)のこと、誠に誠にお気の毒千万なことで、お悔やみ申し上げます。さぞかしお貢(貢姫)はじめ皆さんご愁傷の事と思われます。このような時期ですから、体調など崩されることがあるかもしれません。保養を第一に心掛けてください。幾山においては抜目は無いと思いますが、お貢(貢姫)の養生が何より大切な事です。また、山の上の御茶屋は、どなたもお使いになっていないと思います。もし、お貢がそこへ引っ越しができれば、(佐賀藩邸と)近所で二本榎に引っ越すよりはよいかと思います。但し涼叢院(睿子)(※2)が大屋敷に居住されているため、かえって二本榎の方が気楽かとも思われます。お貢の考え次第ですので、幾山もよくよく考えてください。」

その後、貢姫さまは江戸の川越藩屋敷から川越の地へお引っ越しされ、2年ほどそこで生活をされます。慣れない地での生活を心配した直正公は、変わらず貢姫さまとお手紙を交わされました。どんな時でも娘を思う直正公の優しいお気持ちが伝わってきます。

 

参考

※1:松平直侯(1839~1863)
水戸藩徳川斉昭の八男。すぐ上の兄に徳川慶喜(一橋徳川家当主、のち15代将軍)がいる。嘉永7年(1854)に養父松平典則の隠居に伴い、川越松平家の家督を相続。
※2:涼叢院(松平睿子)(1819~1875)
松平斉省(11代将軍家斉の実子で、4代川越藩主・斉典の養子となる)の継室。岡山藩主池田斉政の四女。

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