前回に続き今回も7代佐賀藩主鍋島重茂公の夫人について紹介したいと思います。今回は2人目の夫人淑姫様についてお話しします。
淑姫様は延享元年(1744)に田安徳川家初世徳川宗武公の娘として生まれました。宗武公は8代将軍徳川吉宗公の次男で、淑姫様は吉宗公の孫娘にあたります。実弟は「寛政の改革」で有名な老中松平定信公。源姫様が亡くなられた後、宝暦13年(1763)に重茂公に嫁がれました。72歳と長命で、重茂公亡き後も江戸の佐賀藩邸にて鍋島家を支えます。 |
![]() ▲淑姫(重茂室)像 |
重茂公亡き後、淑姫様は圓諦院と称します。重茂公の跡を継いだ8代治茂公は2人の妻に先立たれてしまいます。そのため、寛政3年(1791)に3人目の妻として親子ほど年の離れた穆姫(あつひめ)様をお迎えしました。この治茂公と穆姫様の縁談については、次の回でご紹介します。
さて、藩主夫人となる穆姫様が佐賀藩邸へ引っ越す時の圓諦院様とのエピソードが次のように残されています。(※1)
【翻刻】
「一 壽姫様御引越御比合之儀、殿様御着府前御引越、暫は溜池御広式被成御逗留、御家風等其外圓諦院様より御咄合をも被遊、御有付被成候様被成進、桜田江は御着府五・六日以前ニも御引移被成候様ニと之圓諦院様思召之由…(後略)…」
【現代語訳】
「壽姫(穆姫)様の(佐賀藩邸への)お引っ越し時期については、治茂公が江戸へ到着される前にお引越しを行うように。しばらくは溜池屋敷(中屋敷)へ御逗留する事にし、その間に鍋島家の家風などを圓諦院様よりお話しされ、鍋島家に慣れるようにとのことである。桜田屋敷(上屋敷)については、治茂公到着の五、六日前くらいに引き移るようにと圓諦院様のお考えである」
若くして嫁いでくる穆姫様のために、圓諦院様は先代藩主夫人として鍋島家の家風などをお伝えされていたようです。穆姫様にとっても圓諦院様は頼もしい存在だったのかもしれません。
こちらの資料は淑姫様が「秋祝」の題で詠んだ和歌五首です。和歌は古来より上流階級の教養の一つとして重要視され、男女が気持ちを伝えるために和歌を詠み交わしたり、歌合や歌会を開いて交流を深めていました。江戸時代も和歌は男女問わず嗜みとされていました。
「ちひろなる 竹に契りを祝こめて ふしふしことに 恵そふらむ」
「とことわの 御園に咲る梅のはな 万代ふかき 匂ひそふらむ」
「天みつる 神の恵をいくよろつ かきりしられす あふく諸ひと」
「いと竹の 声すミわたる秋の夜の 月のひかりを猶あふくらむ」
「千世万 さかへんことを いとゝしく けふよりふかく 恵添てよ」
▲和歌「秋祝」五首
※1 鍋873-16 殿様治茂公壽姫様松平能登守乗保御妹御縁談記録(佐賀県立図書館寄託/公益財団法人鍋島報效会所蔵)