第10回 佐賀で過ごしたお姫さま

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今回は、直正公の継室・筆姫様についてご紹介します。筆姫様は鍋島家に嫁いだお姫さまの中で、佐賀の地で過ごされた数少ない方でした。佐賀ではどのような生活をされていたのでしょうか。 
 

慣れない土地での生活

筆姫様は御三卿の田安徳川家3世・徳川斉匡公の娘として江戸に生まれました。弘化4年(1847)に直正公と結婚、以降は佐賀藩の江戸屋敷で生活されます。しかし文久3年(1863)4月、江戸の政情不安につき筆姫様は佐賀の地へ移られました。
江戸で生まれ育った筆姫様にとって佐賀は見たこともない地でした。当初は引きこもりがちだったご様子が、直正公が娘の貢姫様に宛てた手紙に記されています。しかし、半年も経つ頃には「奥(筆姫)も佐賀にずいぶんと馴染み、この間は川上の鮎梁に出かけ、随分と楽しんだ様子でした」と同じくお手紙に書かれています。この他にも神野御茶屋や與賀神社のお祭りなどにもお出かけされ、佐賀の地を少しずつ楽しまれた様子が伝わっています。


 ▲筆姫様


▲貢姫宛て鍋島直正書簡 文久3年8月17日付

【翻刻】
「文月四日之文之趣、逐一致披見参らせ候、今程秋令相成候得共、まつまつ御揃、何方の御障りもなく、めて度存参らせ候、只今此ハ如何暮候哉と存参らせ候、奥も大分居馴れ、此間ハ河上江簗り被参、殊外の楽しみの様子ニ御座候 …(後略)…」

【現代語訳】
「最近はいかがお過ごしかと思いを巡らせています。奥(筆姫)も(佐賀に)ずいぶんと馴染み、この間は川上の鮎簗に出かけられ、随分と楽しんだ様子でした」


姉との再会

筆姫様が佐賀へ移って1年ほど経った元治元年(1864)3月24日、筆姫様は筑後川の舟の上で姉・純姫様と再会します(※1)。純姫様は柳川藩12代藩主・立花鑑寛公へ嫁いでおり、筆姫様同様に江戸を離れ立花家の国許である柳川で過ごされていました。

【翻刻】
「同廿四日/柳川夫人は大夫人御妹(原文ママ)君ニ候処、御近領之儀ニ付御境川辺ニ而御出会被成度旨被仰進候由ニ而、大君より吟味被仰付候、御女儀様方之御事ニ付御船ニ而御逢被遊候分ハ御支所も有之間敷申合御事柄ニ而、当役ニも相談候処、御国躰差構候程之儀も有之間敷、尤河内殿御暇中ニ付一応懸合之上否可及返答由」

【現代語訳】「同(三月)廿四日/柳川夫人(純姫)は大夫人(筆姫)の姉である。(佐賀藩)近くの柳川藩に居るため、立花家側より藩境の川辺(筑後川)にてお会いしたいとのお話があった。大君(直正公)から検討するようにとの指示があった。女性方の事なので船上で会う分には問題もないでしょうとの事で当役に相談したところ、御国体に影響を及ぼす程の事でもないと思われるが、河内殿(鍋島直暠)が地元に居られるため一応確認してから返答します」

 

立花家からの要請により実現したこの再会は、筆姫様にとってもほっとするひとときだったことでしょう。久しぶりの再会で姉妹はどんなお話に花を咲かせたのでしょうか。
江戸時代のお姫さまは現代に比べると制約も多い生活だったことでしょう。そうした中でも筆姫さまは、見ず知らずの土地でも日々の生活の中で楽しみを見つけながら過ごされていました。

 

※1 鍋022-267 鍋島夏雲日記(佐賀県立図書館寄託/公益財団法人鍋島報效会所蔵)

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